中国が他国を侵攻したことはない!って本当なの?

中国

2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が世界を震撼させた。この衝撃的な出来事は、国際社会に緊張をもたらし、特にアジアでは中国による台湾への潜在的な侵攻が懸念されるようになった。そんな中、中国の高官から「中国は他国を侵攻したことがない」「我々は平和を愛する国だ」という発言が聞こえてくる。これらの言葉は、公式声明や記者会見を通じて繰り返し発信され、国際社会に中国の「非侵略的」な姿勢を印象づけようとしている。だが、果たしてこの主張は真実なのか?歴史を振り返れば、中国が他国と無縁であったとは言い難い。本稿では、中国の過去から現在に至る「外国への侵攻」の記録を整理し、その実態に迫ってみた。

中華人民共和国(1949年~現在)

  • チベット侵攻: 1950年頃、チベット(現在のチベット自治区)へ侵攻。中国人民解放軍がチベットを占領し、1951年に「平和解放」として中国の一部に併合した。
  • 朝鮮戦争への介入: 1950年から1953年頃、朝鮮戦争(現在の北朝鮮)へ介入。中国が北朝鮮を支援し国連軍(主に米国)と交戦、休戦協定で現状維持となったが、北朝鮮の侵攻が先立つ防衛的支援。
  • 新疆ウイグル接収: 1949年から1950年代にかけて、東トルキスタン共和国(現在の新疆ウイグル自治区)へ侵攻。人民解放軍が制圧し、新疆を中国の一部に編入した。
  • 中印国境紛争: 1962年頃、インドとの国境地帯(ラダック、アルナーチャル・プラデーシュ)へ侵攻。軍事衝突で一部地域を占領した後に撤退した。
  • 中ソ国境紛争: 1969年頃、ソ連との国境地帯(珍宝島/ダマンスキー島)へ侵攻。ソ連との間で戦闘が起き、小規模な衝突の後に緊張が緩和した。
  • 西沙諸島(パラセル諸島)占領: 1974年頃、西沙諸島(南シナ海)へ侵攻。南ベトナムから奪取し、実効支配を確立した。
  • 中越戦争: 1979年頃、ベトナムへ侵攻。ベトナムのカンボジア侵攻への報復として短期間戦争を行い、一定の損害を与えた後に撤退したが、ベトナムの行動が背景にある防衛的報復。
  • 南沙諸島(スプラトリー諸島)占領: 1988年頃、南沙諸島(南シナ海)へ侵攻。ベトナムと交戦し一部礁を占領、実効支配を拡大した。
  • ミスチーフ礁占領: 1995年頃、ミスチーフ礁(南シナ海)へ侵攻。フィリピン領有主張地域を占拠し、実効支配を確立した。
  • スカボロー礁占領: 2012年頃、スカボロー礁(南シナ海)へ侵攻。フィリピンとの対立で実効支配を確立した。
  • 中印国境衝突: 2020年頃、ラダック地域(インドとの国境地帯)へ侵攻。インド軍と衝突し死者が出たが、緊張が継続する中で状況が膠着した。

清(1644年~1912年)

  • 朝鮮半島への侵攻: 1627年と1636年から1637年頃、朝鮮王朝(現在の朝鮮半島)へ侵攻。後金が1627年に侵攻(丙子胡乱)、清が1636年に服属させ(丁卯胡乱)、朝鮮を冊封下に置いた。『清史稿・朝鮮伝』『朝鮮王朝実録』
  • モンゴルへの勢力拡大: 1630年代から1750年代にかけて、内モンゴル、外モンゴル、ジュンガル(現在のモンゴル)へ侵攻。内モンゴルを1634年に、ドルノール会盟で外モンゴルを1691年に、ジュンガルを1755年~1757年に征服し、モンゴル全域を支配した。『清史稿・蒙古伝』
  • チベットへの勢力拡大: 1717年から1792年頃、チベット(現在のチベット自治区)へ侵攻。1720年にジュンガルを駆逐し、1792年にグルカを撃退してチベットを保護国化した。『清史稿・西藏伝』
  • 新疆への勢力拡大: 1755年から1759年頃、ジュンガル、ウイグル地域(現在の新疆ウイグル自治区)へ侵攻。ジュンガルを滅亡させ、タリム盆地を平定して新疆を直接支配した。『清史稿・準噶爾伝』『西域図志』

明(1368年~1644年)

  • ベトナムへの侵攻: 1406年から1427年頃、胡朝(現在のベトナム北部)へ侵攻。永楽帝が胡朝を滅ぼし交趾布政使司を設置して20年間支配したが、レ・ロイの反乱で撤退した。『明史・交阯伝』『大越史記全書』
  • モンゴルへの遠征: 1370年代から1424年頃、北元、東モンゴル、西モンゴル(現在のモンゴル)へ侵攻。洪武帝が北元を追撃(1372年)、永楽帝が5次親征(1410年~1424年)を行い一時弱体化させたが、完全支配はできず北元の侵入が背景にある防衛的報復。『明史・蒙古伝』
  • 雲南への遠征: 1381年から1449年頃、雲南の非漢民族(現在の雲南省)へ侵攻。洪武帝が梁王を討伐(1381年~1382年)、後に麓川の思氏を平定(1436年~1449年)し、雲南を明の版図に組み込んだ。『明史・雲南土司伝』
  • ビルマへの遠征: 1440年代と1590年代頃、ビルマ北部(現在のミャンマー)へ侵攻。雲南安定化のため遠征し一時勝利したが、持続的支配には至らなかった。『明史・緬甸伝』

元(1271年~1368年)

  • 朝鮮半島への侵攻: 1231年から1270年頃、高麗(現在の朝鮮半島)へ侵攻。6回の遠征で高麗を服属させ、1270年に和平を結んで冊封下に置いた。『元史・高麗伝』『高麗史』
  • 日本への遠征: 1274年と1281年頃、日本へ侵攻。フビライが2回侵攻(元寇)したが、神風(台風)などで失敗した。『元史・日本伝』『新元史』
  • ベトナムへの遠征: 1258年、1285年、1287年頃、大越(現在のベトナム北部)へ侵攻。服属を求めるも抵抗され3回遠征したが、失敗し撤退した。『元史・安南伝』『大越史記全書』
  • ジャワへの遠征: 1293年頃、シンガサリ王国(現在のインドネシア)へ侵攻。フビライが遠征し一時勝利したが、支配を確立できず撤退した。『元史・爪哇伝』
  • ビルマへの遠征: 1277年、1283年、1287年頃、パガン朝(現在のミャンマー)へ侵攻。服属を求め遠征したが、パガン朝を衰退させただけで完全支配には至らなかった。『元史・緬中伝』

唐(618年~907年)

  • 朝鮮半島への侵攻: 645年から668年頃、高句麗(現在の朝鮮半島北部と満州)へ侵攻。太宗が645年に遠征(失敗)、高宗が668年に新羅と連合して高句麗を滅ぼし、朝鮮半島北部を一時支配した。『旧唐書・高宗紀』『新唐書・東夷伝』
  • 吐蕃への侵攻: 7世紀後半から8世紀にかけて、吐蕃(現在のチベット高原)へ侵攻。670年に吐蕃が西域を攻撃した報復として反攻し、787年に平涼で勝利したが長期支配は困難で、吐蕃の先制攻撃が背景にある防衛的報復。『旧唐書・吐蕃伝』『新唐書・吐蕃伝』
  • 突厥への遠征: 630年から657年頃、東突厥と西突厥(現在のモンゴル、中央アジア北部)へ侵攻。太宗が630年に東突厥を滅ぼし、高宗が657年に西突厥を征服し、モンゴル高原と中央アジア北部を支配した。『旧唐書・突厥伝』『新唐書・突厥伝』
  • 西域への進出: 640年から649年頃、西域(現在の新疆ウイグル自治区、中央アジアの一部)へ侵攻。高昌(640年)、焉耆・亀茲(648年~649年)を服属させ、西域を直接・間接支配した。『旧唐書・西域伝』『新唐書・西域伝』
  • 薛延陀への遠征: 646年頃、薛延陀(現在のモンゴル北部)へ侵攻。太宗が李勣を派遣して薛延陀を滅亡させ、北方の安定化を図った。『旧唐書・薛延陀伝』

隋(581年~618年)

  • 朝鮮半島への侵攻: 605年から614年にかけて、高句麗(現在の朝鮮半島北部と満州)へ侵攻。煬帝が4回にわたり大軍を動員し、特に612年に数十万の軍で攻めたが、高句麗の抵抗で失敗し隋の滅亡要因となった。『隋書・煬帝紀』『資治通鑑・隋紀』
  • 吐谷渾への侵攻: 608年頃、吐谷渾(現在の青海省)へ侵攻。文帝と煬帝が吐谷渾を攻撃し滅亡させ、青海地域を隋の版図に編入した。『隋書・吐谷渾伝』

三国時代(220年~280年)

  • 蜀漢の南征: 225年頃、南中(現在の雲南省、貴州省、四川省南部)へ侵攻。諸葛亮が雍闓と孟獲の反乱を平定し(七縦七擒)、南中を蜀漢の支配下に置いて資源と兵力を確保したが、南蛮の反乱が先立つ侵攻。『三国志・蜀志・諸葛亮伝』『華陽国志』
  • 魏の烏丸・鮮卑への遠征: 230年代から250年代にかけて、烏丸・鮮卑(現在の内蒙古自治区東部、遼寧省)へ侵攻。曹叡や司馬懿が鮮卑の軻比能を牽制し、238年に公孫淵の遼東反乱を平定する過程で烏丸・鮮卑に軍事圧力を加え、一部を服属させた。『三国志・魏志・明帝紀』『三国志・魏志・司馬懿伝』
  • 呉の夷州・儋耳への遠征: 230年頃、夷州・儋耳(現在の台湾や海南島と推定)へ侵攻。孫権が衛温と諸葛直を派遣して南方の島嶼を探索・征服しようとしたが、疫病と補給難で失敗し大きな成果を上げられなかった。『三国志・呉志・孫権紀』

後漢(25年~220年)

  • 曹操による烏丸族への侵攻: 207年頃、烏丸族(現在の内蒙古自治区東部、遼寧省)へ侵攻。後漢末の軍閥・曹操が袁紹の残党を追って柳城を攻撃し、白狼山で烏丸の単于・蹋頓を破って服属させ、北方の安定化と華北支配を強化した。『三国志・魏志・武帝紀』『後漢書・烏丸鮮卑東夷伝』

漢(紀元前202年~220年)

  • 匈奴への遠征: 紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、匈奴(現在のモンゴル、中央アジア北部)へ侵攻。衛青と霍去病が紀元前121年に河西走廊、紀元前119年に漠北で匈奴を大勝し、ゴビ砂漠以北に追いやることで西域進出の基盤を築いたが、匈奴の先制侵攻(紀元前200年の白登山包囲など)が背景にある防衛的報復。『史記・匈奴列伝』『漢書・衛青霍去病伝』
  • 西域への進出: 紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけて、西域(現在の新疆ウイグル自治区、タリム盆地、中央アジアの一部)へ侵攻。紀元前108年に楼蘭を攻撃し、紀元前60年に西域都護府を設置して焉耆や亀茲などを服属させ、シルクロードを掌握した。『漢書・西域伝』『後漢書・西域伝』
  • 朝鮮半島への侵攻: 紀元前108年頃、衛満朝鮮(現在の朝鮮半島北西部)へ侵攻。武帝が衛満朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など四郡を設置して朝鮮半島北西部を直接支配した。『史記・朝鮮列伝』『漢書・朝鮮伝』

秦(紀元前221年~紀元前206年)

  • 南征(百越への侵攻): 紀元前214年頃、百越(現在の広東省、広西チワン族自治区、ベトナム北部)へ侵攻。秦の始皇帝が50万の軍を動員し、将軍・屠睢と趙佗を派遣して南方の百越を征服し、嶺南地域に桂林郡、南海郡、象郡を設置して直接支配した。『史記・秦始皇本紀』『史記・西南夷列伝』

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